クシュラの奇跡とのら書店創立の話

のら書店の出発、そして今、これから……

 1983年の秋、『会社の作り方』という本を手に、二人で、のら猫がやたらに多い路地裏の雑居ビルに事務所をかまえました。
 60年代後半より子どもの本の編集にたずさわってきて十余年、それは新しい児童文学をめざす活気に満ちた時代から、成熟した作品そしてさらにより新しい作品の登場へとつづく実り多い時代で、そこには文字どおり新しい児童文学と絵本の創造に燃える熱い流れがあり、その端に身をおくことのできたわくわくするような年月でした。
ようやく日本の創作児童文学や絵本が多くの人に読まれるようになり、すぐれた外国の本が続々と翻訳出版された幸運な時代でもありましたが、やがて70年代終わりあたりからの児童書出版の流れの変化は、私たちにはかなりきついものになっていました。
 洪水のごとくあふれる出版物、年々短くなる本のいのち、そしていわれる活字離れ。
これからいったいどうすればいいのか……不安と焦燥の日々のなかで、二人で語り合い、この大きな流れから一度身を引いて、最初から出直そうと決意しました。

 子どもの本の原点にもどって考えてみよう、そこから何かが見えてくるかもしれない。そんなとき出会ったのが『クシュラの奇跡』という本でした。これは、ニュージーランドで児童書専門店を経営しながら、母と子の読書指導をしているドロシー・バトラーさんの著した本で、クシュラという女の子の“生”の記録であり、その成長にかかわった数多くの絵本の物語です。ここには、染色体異常による重い障害をもって、過酷きわまる人生を歩むべく生まれついたクシュラが、絵本の世界の住人を友として、あけっぴろげで前向きの、幸せな子どもに成長していくようすが描かれています。
 冷静で客観的な叙述で、障害児をもつ親をはじめ、すべての親、教育にたずさわる人々への、実用的、具体的な示唆と提言に満ちていますが、さらにすばらしいのは、著者の人間への愛と絵本に対する深い造詣とに支えられて、一障害児の記録の枠を超え、人生の価値と生きるよろこびを伝える文学作品になっていることでした。

 この本を手にしたとき、胸につかえていた大きな塊がとけていくのを感じました。人間にとって、とりわけ子どもにとって、本がいかに大きな力をもつかということをみごとに立証したこの著作は、長年子どもの本にたずさわってきてなおますます奥深いその世界に魅せられている自分たちの、本に寄せる信頼をまさに裏付けてくれるもののように思われたのです。
 そして著者も述べているように、進んで子どもと本の仲立ちをする人間なしには、本は子どもの手に届かない、という児童書の宿命を痛感してきたが故に、ぜひともこの本を翻訳出版し、私たちもまた歩きはじめようと思いました。

 こうして84年の初夏、初めての出版にこぎつけることができたのですが、そこに至るまでとそれ以後に与えられた大勢の方々の温かい力添えと大きな励ましを思うとき、本が私たちにもたらしてくれたものの大きさにあらためて感動せずにはいられません。
 無謀な私たちの計画にあきれつつも、小さな出版社だからこそできることを目ざせ、それが出版の原点なのだからと、その実現に手をかしてくれた方々はすべて、大きな夢とアイディアをもつ、ほんとうに本の好きな人々でありました。そしてさらに多くの見知らぬ読者の方々からの励ましは、子どもの本の未来へ不安を抱く私たちにとって、大きな希望をもたせてくれるものでありました。このような人々がいるかぎり、本は生きつづけ、人の生とかかわりつづけるだろうとの確信が強まったのでした。

 それから24年を経て、のら書店のメンバーは5名、出版物も60数冊になりました。今、子どもたちのおかれている厳しい状況を思い、このような時代だからこそ、子どもたちの心を自由に解き放つ楽しい本を、人生の出発点に立つ人たちに生きるよろこびを伝える本をおくりたいと思います。本によって、本にかかわる人々によって私たちの人生は開かれたという感謝の気持ちをこめて、この小さな路地裏から。

2008年7月 礒野誠子

 
 
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